旭川兵村記念館 〜上川百萬石の礎〜

村民一丸での米作りをしました。農機具の発明、籾の品種改良など上川稲作のパイオニアとなりました。

明治25年8月、旭川兵村に入植した屯田兵とその家族。上川稲作の原点(パイオニア)になった人びとだ。過酷な開拓の中、不適とされた稲作に一丸となって挑戦した村人である。当館では米作りに向けた村人のなみなみならぬ思いや英知の数々を展示している。

旭川兵村の米作りは、入地早々から幾人もの屯田家族が祖国から持ち込んだ種籾で試作を行ったが中でも第4中隊家族の藤田貞元(元津軽藩士)は稲作に反対する屯田兵司令部や中隊長を説得して上川最初の灌漑溝開さく(明治27年)にこぎ着け、その苦闘の様は水田狂とよばれて特筆されている。これにより兵村の第一給与地(宅地)は十年も経たずに全域が造田され、その面積も他兵村の3倍(当麻兵村)から6倍(永山兵村)と群を抜いて急速に広まった。また不可能とされた北海道の稲作を更に発展させたのも旭川屯田の家族で、次々に農機具の発明も行った。その一つ目が家族の苦痛を軽減しようと3年がかりで末武安次郎・マス子夫妻が協力して考案した水稲直播機(タコ足)。二つ目は寺門千我吉による水稲直播機(ネコ足)である。そして三つ目が吉峰吉次郎の考案した籾すりなどの農機具を馬力によって回転させる馬廻動力機(唐傘)であった。これら旭川屯田が稲作に果たした努力は類まれで、「上川百万石の礎」に呼ぶにふさわしく、後続の空知方面や道東、道北方面の稲作普及にも大きく貢献している。